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文亮[ぶんすけ]

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第80話 ジャージ(1)

2017/06/01 Thu 08:36
category - エッセイ
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◆「ジャージ」という言葉が今でも世間で通用するのか、いやもっと詳細に書くとすると、世の中の文化の中心となっている若い方々に通用する言葉なのか……?
 そういった一抹の不安が僕の頭を過ったのだけれど、きっと通用するだろうと勝手に思うことにして話を進めさせて頂くことにする。

 とは言え、やはり何かしらの説明をしておいた方が中身に入りやすいのではないかと思うので「ジャージ」について簡単な定義付けをしておこう。
「ジャージ」とは、つまりは体操着の類のことだ。本来の意味は伸縮性のある厚手の生地で作られた衣服のことを指すようだが、ここではそういった生地で作られた体操着の類を考えて欲しい。「ジャージ」でピンと来ないのであれば「スウェット」を想像してもらってもいい。要は運動に適した服だ。

 皆さんはこの「ジャージ」というものをいつ着用されているだろうか?
 運動に適した服なのだから、それは何かしらのスポーツなどをする際、つまり運動することが必然となることを行う際に着られるだろう。これは至極当然だ。元々(いわゆる)ジャージというものは、そのために作られたものだからだ。
 しかし世間には運動する際に限定せず普段着としてもジャージを着用していらっしゃる方々がいる。特に学生の多い街なんかだと昼夜を問わず、そういう出で立ちをしている人をよく目にする。理由は簡単だ。楽だからだ。(少なくとも今の僕だと、それがジャージを穿く一番の理由だ。)
 じゃあ学生の多い街以外では、そういう出で立ちの人を目にすることが少ないのかと言えば、そうでもない。実は住宅街、それも休日の住宅街にその恰好をした人がよく見受けられる。その多くはサラリーマンだ(と思う)。普段はカッターシャツやスーツに身をまとっているサラリーマンの多くは休みの日は当然ながらカジュアルな私服を着ることになるのだが、ジャージで過ごすという方が少なくない。特に既婚者でかつお子さんがまだ小さいという方だとその傾向は大きい。なぜなら(僕もそうだったのだけれど)休みの日くらいはお父さんと遊ぶというケースが多く、その際にジャージといった楽な格好をした方が都合が良かったりするからだ。特に子供と外で遊ぶと服が汚れる。その際にお気に入りの服やちょっとお値段が高めの服を着ていたりしたら下手をするととんでもないことになってしまう。皆が皆そうだとは言わないが、やはりジャージやスウェット等の少々汚れても構わない服を着ることが多いと思う。

 ここまで書いて僕がいったい何を言いたいのかと思われた方がいるかも知れない。だから前置き(それにしては長かったかも知れない)はこの辺りにしておいて本題に移ろう。

 そんな楽で重宝するジャージだが、僕は普段着としてそれを着用することは推奨しない。その理由は簡単だ。体が楽な方楽な方へとなびき、その結果、(皆が皆そうだとは言わないが)だらしない体形になってしまうからだ。
 これは嘘ではない。紛れもない真実だ。なぜなら少なくとも僕という証人がいるのだから。

 僕は子供が生まれるまで、例えば大掃除をするだとか何か体を使わねばならない作業をするといった場合を除き、基本的に普段着としてジャージを着用するということをしていなかった。一日中家にいるとわかっていても基本はジーパンを穿きベルトを締めていた。平日でもそうだ。仕事から早く帰ってきた日は同じようにジーパンに穿き替えていた。別にジャージやスウェットを毛嫌いしていたわけではない。単にそういう生活スタイルだったのだ。
 それが結婚して子供が生まれ、その子供が動き回るくらいに成長した頃になると変わってしまった。それまでは僕はやっぱり家にいるときは季節を問わずジーパンを穿いてベルトを締めていたのだけれど、子供と外で遊ぶことが多くなると、いつの間にかジャージの類を穿くようになった。前述したとおり、その方が楽だし汚れを気にしなくてもいいからだ。
 服が汚れることを気にしてしまうと子供ときちんと遊べない。その時は服よりも子供と一緒に過ごすことが僕の中で優先されたわけである。
 そうなると僕は楽な服装をすることが多くなった。上はTシャツやトレーナー系で更にはジャージの上着。そして下はジャージの長ズボンや半パンが主になった。冬の寒い日などはナイロン製の素材の長スボン(歩くと「シャカシャカ」という音がするゆえ「シャカパン」と呼ばれた)を穿いた。それが当たり前の生活になっっていたのだ。
 そういう生活になると出かける場合も、そういった服装になってしまった。最初の頃は少なくともお出かけの際にはジーパンに穿き替えるといったことをしていたのだけれど、気が付くとその上下ジャージという恰好で出かけることに何のためらいもなくなっていて、それが当然という生活になっていた。メーカーにこだわりさえなければ、それはユニクロ等のファストファッションの店に行けば安価で手に入る。裕福ではない僕たちには本当にお手軽なファッションでもあったのだ。
 しかしながら20年近く続いた、そういった衣類を着用し続ける生活は僕の体に悲しい結果をもたらした。これは皆さん、想像するに容易いと思う。

(次回「第81話 ジャージ(2)」に続く)





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第81話 ジャージ(2)

2017/06/02 Fri 08:45
category - エッセイ
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 ジャージの類の場合、そのスボンがずり落ちないようにするためにベルトのようなものが使われることは、まずないだろう。僕自身、そんなことはしたことがないし、そんなことをしている人を見たこともない。第一、ジャージのズボンにはジーパンやスラックスにあるようなベルトループが付いていない。付けようと思えば付けられるのであろうが、敢えてそこまでする人を僕はこれまでに見たことがない。
 ジャージのズボンを穿いた場合、(色々な方法があるのだろうが)ズボンの腹周り部分に内包されている、適度に伸縮するゴムバンドによってずり落ちないようになるか、もしくは同様に腹周り部分に内包されている紐なりを結ぶことによってズボンがずり落ちないようにするか、が一般的だろう。
 もちろんゴムバンドの場合も紐を結ぶ場合も、締め具合は着ている人間の腹周りが苦しくないレベルだ。腹周りが苦しいと感じればゴムバンドを緩いものに替えたり、紐の結び具合を緩めたり、もしくは単純にジャージそのものをサイズの大きなものに替えたりする。つまりはジャージを着用するというシーンにおいては、腹周りが苦しいというような状態にしておくことは、まずないのである。
 ゆえにジャージのズボンの類ばかりを日常的に穿き続けていると、当然ながら腹周りの変化に鈍感になる。ベルトを使用していれば「この穴だと腹がきつくなった」という具合に腹周りの太り具合に対する警戒感が否応にも芽生えるだろうし、ジーパンやスラックスなら、それそのものに窮屈さを感じて「ちょっとダイエットしなきゃまずいかな?」などと思ったりするだろう。だがジャージのズボンの類だと、このような肥満危機警告が発せられることはない。むしろそれらを自身が気付かない間に日常の「当たり前」の一部として取り込んでしまう。それは「歪んだ優しさ」以外の何物でもない。そんな状態に20年もの間居続けると、人間の体というものは、いったいどうなってしまうのか?

 まずは腹が出る。間違いなく出る。見下げれば自分の一物が完全に隠れてしまうほどに腹がポッコリと出るのだ。しかも醜く出る。三段腹どころではない。細かく見れば四段か五段くらいある。
 腰の周りにも贅肉がつく。それはそれはだらしなく贅肉がつく。手で簡単に掴めるくらいにだ。
 以前は何の問題もなく穿くことができたジーパンがいつの間にか穿けなくなる。
 体が楽さに慣れてしまって、たるみまくる。
 もちろん体重も増える。ある日久しぶりに体重計に乗り、それに示される数値に絶望的な悲しみを感じてしまうくらいに増えているケースもある。

 定期的に何らかのスポーツをする等、しっかりとした運動を続けていれば、酷くなることはないのだろうが、多くのサラリーマン、特に中年以降のオッサンになると、なかなかそういったことをするのが億劫になり、強いきっかけ等がなければ日々の楽さにズルズルと過ごしてしまう。
 ご多分に漏れず僕もこれといった運動などほとんどすることなく過ごしてしまった。
 結果、鏡に映る自分の姿は中高年のオッサンによく見られる、胸辺りの筋肉は削げ落ち、腹が脂肪でぽっこりと出て、腰辺りには余分な贅肉がぶら下がっているという典型的なものになった。そこに筋肉のない細い手と足が二本ずつ伸びているのだ。
 これは酷い。鏡に映るその姿は自分でも醜悪至極と思わずにはいられないほどだった。だからまだ僕が経験したような状態になっていない人に警告したい。

 普段着にジャージを常用してはいけない。

 いや、この考えを押し付けるつもりは毛頭ないが、それでもジャージの常用は避けることをお勧めしたい。
 何が良くないって、あの腹周りに内包されているゴムバンドや紐だ。楽なレベルで締め続けると知らぬ間にそのレベルは果てしなく緩んで行く。
 更に良くないのは、あの伸びる素材だ。いきなり極端に肉がついたのであれば気が付くだろうが腹や腰につく贅肉は徐々に少しずつ
忍び寄ってくるものだから、なかなか意識し辛いものだ。なのにジャージの、あの伸びる素材の中に埋没していたら、それに気づくことがないに等しくなってしまう。

 体は正直だ。楽な格好をすると、体はそれが導く結果になってしまう。欲望に任せて大食いを続けるのと同じだ。歯止めがなくなると体は楽な方へ楽な方へとなびくのだ。
 だから再度警告したい。
 今、ジャージの類を常用されている方、特別な事情がないのであれば、できるだけ常用は避けた方がいい。定期的に運動をするなりして体力や体形などを一定の水準で維持されていたりしているのであればいいが、そういったこともせず、単に楽だからという理由で常用しているのなら、一度自分の体形なりをチェックしてみて欲しい。
 それは難しいことではない。例えば下着姿(いや、できればボディラインがはっきりとわかる恰好がいい)になって、自分のその姿を鏡に映すだけでいい。それだけで何か自分の頭の中に過る思いがあるはずだ。僕の場合、まさに「典型的な中年オヤジの体」で、それは「醜い!」の一言に尽きるものだった。そして色々考えた結果、ジャージといった楽な服を常用し続けた結果が、こうなったことの一因だと思えた。
 もちろんその結果というものは、ジャージをはじめとする楽な服を常用していたことだけによるものではない。他にも原因はあるだろう。だが僕に関しては一因であったことには間違いない。
 事実、2年ほど前から僕は極力ジャージの類を着ることをやめ、ジーパンを穿くようにした。最初はきつかったが、一ヵ月ほど続けると慣れてしまった。その点においては、やはり体は素直だと思った。今では結婚した頃に穿いていたジーパンが穿けるまでになった。それがすべてジャージの類を着ることをやめ
たことでもたらされたというわけではない。他にも適度に運動したり間食を控えたりするといったことをした。だから必ずしもジャージ云々という話にはならないのだろうけれど、ジャージを常用しないと決めたことは、少なくとも意識の上では僕に十分な効果をもたらしたと言って良い。

 だからそこの奥さん! ご主人さんに、いつまでもカッコ良くいて欲しいと願われているのであれば、必要以上にご主人さんにジャージを勧めないで欲しい。
 楽だから。
 汚れても気にならないから。
 洗濯も手間がかからない。
 安価だ。
 確かに、主婦という立場で考えてもジャージには重宝に思える理由が色々ある。捨て難く思う気持ちは僕にもよくわかる。しかし、それに胡坐をかき続けてはいけない。下手をするとかつての僕のように、ご主人さんが「典型的な中年オヤジの体」になってしまう恐れがあるのだ。もちろん女性にだって同じことが言える。いやもしかしたら男性よりも女性の方がその恐れが大ではないか?
 僕の個人的かつ勝手な考えだけれど、中高年になって夫婦揃って典型的な「中高年体形」になっているのは、あまり褒められたものではない。やはり相応に健康的な体形でいたいではないか。だからどうかその辺りを気をつけて頂き、「ジャージの常用はほどほどに」と申し上げておきたい。






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2017年6月3日(土) 雑記

2017/06/03 Sat 19:44
category - 雑記
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◆今日の備忘録っぽい雑記

2017年6月3日(土)

◆何の夢を見たのかとんと覚えていない。でも夜中に自分の何かを叫ぶ大きな声で目が覚めた。その時は何の夢を見て何に対して叫んでいたのか覚えていた。感情もそれは「怒」の類であったことを覚えている。要は何か、もしくは誰かに対して怒鳴ったのだ。

 ほんの数秒で再び僕は寝入ったと思う。目が覚めていた際の記憶もほとんど消えてしまったから、それは定かではないのだけれど、たぶんそうだったと思う。
 結局覚えているのは夜中に寝ぼけて怒声を発し、それで一瞬目が覚めて再び寝入ったという出来事だ。

 最近こういうことが多い。特に夢の中で怒って実際に声を荒げてしまうことが多くなった。昔は夢の中で腹が立っても現実同様に怒りの感情を簡単に露わにはしなかったのだけれど、それが(現実では今でも怒りを露わにすることは滅多にないものの)最近は感情そのままに怒りを爆発させてしまっているのだ。
 年か? それともようやく自分の気持ちをきちんと表現できる大人になれたのか?
 どちらにしろ今となっては少々厄介なことだ。

 そんな夜中を経て午前6時半頃に目が覚めた。隣を見ると家人は既に起床している。ということは今日も仕事なんだなと思い、僕もそのまま起床した。
 顔を洗い、服を着替えてワンコを散歩に連れ出した。休みの日の僕のお勤めの始まりである。
 ワンコの散歩が終わると、朝のエサやりだ。そしてそれが終わると一階の掃除機掛け。いったいこのお勤めはいつまで続くのだろう。
 午前8時半頃、家人を仕事先まで車で送る。
 自宅に戻る。この土曜日も夕方まで僕一人だ。娘は今日は某有名遊園地に早朝から行くということで昨夜から友人宅に行っている。今日も爽やかな天気になりそうだから絶好の行楽日和になるだろう。じゃあ僕はどうしようか。
 そんなことを考えながら午前中を過ごしたが、具体的に何をしていたのか記憶にない。いや、正確には気が付いたら昼になっていて、昼食にカレーヌードルを食べたことしか今となっては覚えていない。
 更には午後の記憶がほとんどない。何にもしていない。書き残すとしたらソファで居眠りしてしまったことくらいだ。気が付いたらもう3時半を回っていたのだ。仕方なくそれからテレビでやっていた邦画を何となく観て、家人を迎えに行く時間になると車に乗って家人の仕事先まで行き家人を迎えた。
 自宅に戻ってきてすぐにワンコの夕方の散歩に出かけ、戻ってきてワンコに夕方のエサをやり、その後新聞を読むなりしていたら、もう夕食の時間になってしまった。

 いったい今日一日何をしていたのか? 何にもせずにまた一日を無駄にしてしまったと後悔しながら、今これを書いている。
 明日? 明日は家人の実家に行く。先週辺りから話が出ていたのだけれど結局どうするのか決まらず、そのままウヤムヤになっていたのだけれど、一昨日急に本決まりになった。
 僕は僕にまつわる諸々の事情により、現在は可能な限り(身内であれ他人であれ)しばらくは誰にも会わずに過ごしたいという気持ちが強いので、できるなら行きたくないのだけれど、家人一人で車を運転して行かせるわけにもいかないので同行するしかないと思っている。だからたぶん明日も自分のためにこれといったことは何もできない日、人のために動く日になると思う。
 
 誰か一日でいいから、僕のために動いてくれないかなあ。もちろん無償で……。

◆次回のエッセイ(もどき?)は月曜日にアップ予定。お楽しみに。





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2017年6月4日(日) 雑記

2017/06/04 Sun 23:55
category - 雑記
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◆今日の備忘録っぽい雑記

2017年6月4日(日)

◆午前6時半頃に目が覚めた。昨夜同様、やはり何かしら訳の分からない夢を見ていた。ただ、怒鳴ったりはしなかったみたいだ。
 横を見ると家人が寝ていた。さすがに日曜日の今日は、やっぱり仕事は休みということだ。
 しばらく布団の中でウダウダしていたが、もう一度寝入ることは、やはり不可能のようなので起床。時間は午前7時20分。
 静かに着替える。
 顔を洗ってワンコの散歩に行こうとしたら家人も起きてきた。
 そうだった。今日は家人の実家に行くのだった。
 ワンコの散歩、朝のエサやりを終えて朝食を摂った。
 その後一階を掃除機掛け。
 午前9時半頃、テレビでワンピースを何となく観る。ワンピース、昔は面白かったが今では何でもありの世界になってしまったからか全然面白くない。
 それにしてもサンジって能力者じゃないんだろ? 普通の人間なんだろ? なのにどうしてあんなに常人離れした足の力があるの? ゾロもそうだわ。いや、それを言い出したら能力者じゃない奴らが、どうしてあんなに強いのってことになって、漫画として成り立たんわな。でもあまりに何でもありの世界になり過ぎて興覚めがいつまで経っても解消しない。って言うかたぶん解消しないな。まあどうでもいいや。
 午前10時頃に家人と二人で車で出発。道は渋滞一切なし。高速道路を使って約一時間ほどで到着。それからすぐに義姉もやってきた。
 義父、義姉、家人、僕の四人でちょっと値の張る回転寿司屋にて昼食を摂る。
 それからホームセンターやアウトレットの家具屋などを回り、義父宅に戻るとすでに午後4時を回っていた。
 しばらく世間話をする。
 午後5時前、義姉が帰路につき、その30分後に僕らも帰路についた。

 今月から阪神高速道路の料金体系が変わった。距離に則した料金体系に変わった。僕らにとっては値上げだ。家人の実家に行く際、僕らは阪神高速道路を目いっぱい使う。そしてそこからまた違う有料道路を使うのだけれど阪神高速道路が実質的に値上げになってしまったので、往復すると600円以上出費が増えてしまった。正直なところ、これだけ実質的に値上げになると痛い。これまででも往復すると交通費としてまあまあの出費になっていたのだけれど、この度からは本当にちょっと痛い金額になってしまった。
 そういうことで行きは高速道路を使ったが帰りはすべて一般道で帰ることにした。高速道路を使えば早く家に着くが、別に急いでいるわけではない。夜遅くならまだしも、夕方だ。ちょっとくらい遅くなっても問題ないのだ。
 カーナビにて自宅までの帰路を一般道優先で検索。どうやら高速を使わないと倍の時間がかかるようだ。でもいい。一時間かかる道が二時間になるが、その分のお金が節約できる。高速道路を使って帰るということは結局、時間をお金を払って買っていたということだ。今回は、そのお金を払うのをやめた。一時間余計にかかるが節約だ。
 結果、想定したとおり一時間余計に時間がかかって自宅に到着。でもこれくらいなら体力的には許せる。時刻は19時40分。家人の実家から2時間ちょっとのドライブであった。
 昼に寿司をけっこう食べたので、あまり腹が空かず。夕飯は、家人は冷凍の焼きおにぎりを食べ、僕はインスタントラーメンで済ませた。

 今日は久しぶりに一日中運転をしていたせいか、ちょっと疲れた。
 今、午後11時55分。
 もう寝よう。





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第82話 写経(1)

2017/06/05 Mon 11:06
category - エッセイ
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◆最近の日課、いや日課とまでは言えないか、要は思い立った時にやっていることなのだけれど、表題にあるとおり僕は写経ということをやっている。写しているお経は世間でも馴染みのある「般若心経」だ。
 数年前に写経に適したノートの類(と言うか本と言えばいいか?)が販売されていて、実はその際に少々興味を持った。しかし結局その時は、写経するのにお金を出してまでこういうものを手にする必要はないだろうという思いに至り、それで立ち消えてしまった。それ以降は特に「写経」に何の思いも持たなかったのだけれど、最近になってある理由でその気になってしまい、般若心経を写経、いや「写経」と言うよりも「書き殴る」の方が適切だろう、そういうことをするようになった。
 断っておくが僕は別に宗教に熱心な人間ではない。家としては一応仏教なのだけれど、だからと言ってどこかのお寺によくお参りしているとか、家で毎日お経をあげているとかのような宗教活動は日頃一切やっていない。もちろん人に信教を勧めたりすることなんてしないし、見るからに怪しげな壺を高価で売りつけるようなことも絶対にしない。宗教なんて単なる文化の一つだという程度にしか思っていないからクリスマスにはクリスマスケーキを食べるし、ハロウィーンにはテレビで映し出される仮装にニヤリと笑ったりする。そもそも結婚式を神道形式で行った人間だし、たぶん葬式は仏教形式で行うことになる。要は日本のどこにでもいる典型的な「宗教に無頓着な人間」なのである。
 ではそんな僕がどうして写経なんていうことを始めたのか?

 主たる理由はペンを使って書くための筋肉を保持するためだ。
 仕事柄もあって僕は30年以上、毎日のようにキーボードを叩いている。昔はまだペンの類で書類や資料を作ったりすることがあったが、PCが個人レベルにまで普及し始めると、もうほとんどがキーボードを叩きマウスをクリックするだけになってしまった。もちろんペンの類を使って文字を書くという機会は今でもあるが、かつてに比べればそれは激減している。下手すると1週間や2週間はまったくペンの類に触れないということもある。スマホやタブレットの使用も当たり前になった昨今だと、尚更そういうことが多くなった。
 そうなると手の筋肉や腕の筋肉は確実に衰える。普段使っているのならともかく、使わなくなった筋肉は間違いなく衰える。若い頃はそのスピードが気にならないものだが、中高年になってくると段々それに気がつき始める。そして「あれっ?」と思った時にはペンの類を使って書いた文字が見事にミミズが這ったような形を描くのだ。
 キーボードばかりを叩き続ける生活を送っているとそれはもう本当に顕著だ。キーボードやマウスのための筋肉は保持されてはいるものの、その代償としてペンの類で字を書くための筋肉は確実に衰えてしまう。指であれ手であれ他の筋肉同様、使わなければ衰えるのだ。本当に人間の体というのはうまく、かつ正直にできているものだ。

 僕は数年前にこれに気が付いた。ペンで文字を書こうとすると手や指にうまく力が入らなくて、ものの見事に紙上にミミズが這った。力を入れれば入れるほど手や指がわずかに震え続けるのだ。これは例えるとするなら普段まったく運動していない人間が、久しぶりにいきなり過度に運動してしまった時、足腰が自分の意思とは関係なくガクガクと震えてしまうのと同じだ。指、手、腕の筋肉にペンを使って文字を連続で書き続けるための力がなくなっているのである。場合によっては手に痛みが走ったりもする。(同じような症状に「書痙」というものがあるが、これは文字を書くことを常日頃行い続けている人や緊張しやすい人に起こるものらしいから、僕のケースとは少々違うように思える。)

(次回「第83話 写経(2)」に続く)





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